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「ケアとは何か」を突き詰めてたどり着いた ナガヤタワー
2024年6月6日実施
がん患者や障害者、高齢者など社会的に弱い立場の人々の支援に尽力してきた医師である堂園晴彦氏は、鹿児島市の中心部に「ナガヤタワー」という集合住宅をつくりました。その名のとおり「長屋」を目指した住まいです。
その原点と情熱の源泉を探るべく、医療と住まいの関係に造詣の深い髙橋紘士氏と、在宅医療のパイオニアである太田秀樹氏が鹿児島市を訪れ、高橋氏の司会のもと、堂園氏と太田氏が対談を行いました。
ナガヤタワーを見学して
ナガヤタワーを見学して
鹿児島市の中心部に位置する鹿児島中央駅。そこから徒歩5 分、公園や川があり、緑も多い暮らしに便利な立地にナガヤタワーはあります。すぐ横にはコーヒーショップ、美容院、クリーニング店が並び、四季を感じられる植物がきれいに整えられ囲んでおり、外観からも住みやすさを感じ、まるで「小さな街」のようでもあります。
中に入ってみると、エントランスを抜ける広々とした共有スペースがあり、皆が集うための共有エリアがたくさんあります。居心地よくゆったりした雰囲気がそこにはありました。
ナガヤタワーは、高齢者だけでなく、学生さん、ご夫婦、ファミリーなどの幅広い世代の方々がおり、さまざまなライフスタイルを選ぶ人が集まって暮らす住まいです。
またユニークなのは、さまざまなイベントが開催されていること。共同キッチンでの料理教室、絵手紙サークルや映画鑑賞会、住人さん皆が参加する晩ご飯会など、1 年を通して何かしらのイベントが行われています。
内部を見渡すと、コミュニティスペースで住民同士が立ち話をしていたり、テーブルを囲って一緒に何か作業をしていたりと、まさに、かつての長屋を彷彿とさせるような光景が日常的に見られます。
ナガヤタワーは単なるマンションではなく、いわば「生活が共同できる住まい」であり、人々の暮らしを豊かにする仕掛けが随所に施されています。まさに、江戸時代の「長屋」のように、世代や背景の異なる人々が互いを尊重しながら共に暮らし、困ったときはお互いに助け合う。そうしたことが当たり前になっているのです。
「ナガヤタワーの試みは、高齢化社会や孤独死問題など、現代日本が直面する課題への1 つの答えかもしれません」
髙橋氏はそう指摘します。
どのような思いと経緯で、堂園氏はこのような住まいをつくることになったのでしょうか。
「それは──」
堂園氏が、ナガヤタワーに込めた思いを語り出します。
【対談】 追い求めた「人生を豊かにする住まい」
ホスピスがないなら自分で始めよう
太田:堂園先生のお父様は産婦人科医だったと伺っていますが、その跡を継がれたわけですか。
堂園:はい、結果的にはそうなりますね。私の家は祖父の代から医師をしていて、父は鹿児島市内で産科を開業していました。私はがん治療について一生懸命取り組んでいましたので、それを社会に生かすにはどうしたらよいか考え、最初は父が開業した跡地で無床診療所として在宅ホスピスを始めました。まだ緩和ケアという概念もない時代でしたが、患者さんの「在宅で」という思いに応えて始めました。
太田:緩和ケアという概念がない時代となれば1990 年頃でしょうか。
堂園:開業は1991 年ですね。
太田:私は1992 年の開業ですから、ほぼ同じ時期にそれぞれの場所で歩み始めたということですね。当時はまだ在宅医療とかデイケアとか誰もやっていなかった時代ですね。
堂園:そうですね、がんの在宅医療も誰もやっておらず、ホスピスという言葉も浸透していない時代でしたが、患者さんからの要望はあり、だったら自分がやろうと進めました。
その当時の鹿児島には末期がんの患者さんの入院施設もなく、そのうち患者さんやご家族から「入院施設をつくってほしい」という声が寄せられるようになり、有床診療所の開業を決めました。1996 年に19 床のホスピス病棟を備えた「堂園メディカルハウス」を竣工しました。
「手のぬくもりとおもてなしのシャワー」を合い言葉に、もう一度「来たくなる・そこで死にたい」病院を目指しました。「どこでもドア」ならぬ「どこでもケア」を掲げ、入院・在宅・通院すべてにおいて患者さんが望む医療を提供できるようにという熱い思いがありました。
髙橋:患者にとっては、つらい思いをして診療所・病院に来ているので、待合室の椅子や空間が心地よいと気持ちも少し和みますよね。今、そのような患者目線での空間デザインを取り入れた病院ができてきていますが、メディカルハウスは、そうした例の先駆けといえますね。
ナガヤタワー誕生の原点
髙橋: 診療所機能のあるメディカルハウスのすぐ隣にはナガヤタワーが建てられましたが、次はぜひ「ナガヤタワー」について、その原点から教えてください。
堂園:私は2002 年に、よりよい医療人を育成すべく、NPO 法人「風に立つライオン」を立ち上げました。そこでインドのマザーテレサが建てた「死を待つ家」や、ハンセン病患者の村である「チタ・ガール(平和の村)」を訪問しました。そこでの経験がナガヤタワーの原点になりました。
太田:どのような経験をされたのですか。
堂園:そこには決して最新医療があるわけではなく、医療的な設備は決して恵まれていませんでした。でも、まわりの人たちは患者さんにやさしく寄り添い、症状が軽い人が症状の重い人を看病したり、おばあさんが赤ちゃんの面倒を見ていたりと、みんなが助け合いながら生きていました。
そこで「ケアの本質」とは何かと考えたのです。治療することだけがケアなのだろうか。そうではなく、「ケアするとは何か」と考えたとき、みんなで助け合いながら命に寄り添う「最愛医療」こそ、大切だと思い至ったのです。
太田:その「最愛医療」の場をナガヤタワーで実現させようと考えられたのですね。
堂園:そうです。長屋の生活は質素だったようですが、それでもお互いに助け合って生き生きと暮らしていた。「社会的孤立」や「精神的孤独」を感じてしまうような状況を改善するには、血のつながりに囚われない人間同士の「絆」を再生するしかないと考えました。
太田:確かに、「医学的な治療」だけで患者さんを幸せにはできませんよね。
堂園:これまでの施設は、高齢者は高齢者の施設、障害者は障害者の施設、がん末期の患者さんはホスピスと、同じ境遇の人たちが集まる施設ばかりでした。そうではなくて、年齢や境遇などに関係なく、いろんな人たちが集まってお互いに支え合う場所ができないかと考えました。
つまり、「単なる住まい」ではなく、「人生を豊かにする住まい」をナガヤタワーで実現させたいと構想したのです。
共有エリアで住民同士の交流を。最期まで暮らせる工夫も
髙橋:一言で「人生を豊かにする住まい」といっても、それをマンションで実現するのはそう簡単なことではないですが、どのような具体的構想やデザインが施されていますでしょうか。
堂園:最初の構想としては、10 階建てくらいを考えていました。しかし、それだと普通のマンションになってしまい、住民同士の接点もできません。そこで6 階建てにし、建物をコの字に配置し、玄関ドアを開けると住民同士が顔を合わせるようにしました。そして何よりも重視したのは「共有エリア」です。
趣味のスペースに空中庭園、共有キッチン・ダイニング、共用の大きなお風呂も設け、住民が集える場を多く設けました。グランドデザインは、屋久島在住のアメリカ人の建築家のウィリアム・ブラワー氏にお願いし、木の温もりにあふれたデザインにしてもらいました。
太田:驚いたのは、普通、ベランダは各部屋に間仕切りがあるものですが、ナガヤタワーには間仕切りがなく、自由に行き来できるようになっていたことです。
堂園:間仕切りがあるとどうしても交流が生まれにくくなってしまうので、あえて間仕切りをなくして、声をかけ合ったりできるようにしました。また、エレベーターの前はスペースを広く設けて、椅子や机を置いています。ここで一休みしている方に、ほかの住民も加わって交流が生まれるような仕掛けにしています。
髙橋:住民参加型のイベントもたくさん開催しているようですね。
堂園:映画会、絵手紙サークル、こども食堂などを開いており、3 階の空中庭園では、子どもたちと一緒にバーベキューや流しそうめんなどで楽しむこともあります。
また、毎月1 回「晩ごはん会」というのがあって、晩ごはんを住民みんなでいただきます。共有スペースのテーブルに座って、料理が得意な住民がそれぞれ好きなものをつくって、老若男女が会話を楽しみながら食事をするのですが、住民は40 名以上もいるのでなかなか壮観な眺めです。
太田:共有スペースがもたらす交流による効果は計り知れないですね。これらのイベントは、孤独感の解消、生きがいの創出、互助精神の醸成など、さまざまな恩恵がありそうです。まさに「長屋の精神」ですね。
堂園:ナガヤタワーでは、最期まで自分の部屋で過ごせるのも大きな特徴です。入居したものの、ナガヤタワーでの生活が難しくなったからとほかの施設に入ってしまうのではなく、最期まで自分の部屋で過ごせるように、ベテランのケアマネジャーにお願いして介護保険サービスの手続きをしてもらい、いざとなればナガヤタワーのすぐ隣にある堂園メディカルハウスで医療サポートも受けられるようにしています。
また、希望があれば食事サービスと生活支援サービスを別途契約できるので、退院して1 人で生活するのが不安な方が、ナガヤタワーで短期・長期に入居することもできるようにしています。
「なんとかしなければ」の思いから始まった
太田:堂園先生はがん患者さんだけでなく、障害者の問題、就業支援や特別養子縁組にも取り組まれていますね。そのあたりは、産婦人科医として、「生命に関わりたい」「子どもたちと関わりたい」という思いがあったのでしょうか。
堂園:「生命にかかわりたい」というよりも、「必要に迫られて」「なんとかしなければ」というのが大きかったと思います。
例えば、特別養子縁組も最初はよく知らなかったんです。ある日、1 人の女性が訪ねてきて、「15歳の男の子と16 歳の女の子の間に子どもができて、もう妊娠8 か月だからどこも中絶を引き受けてくれない。どうしたらいいだろうか」という相談を受けました。その赤ちゃんは、いろんな人たちのサポートを受けて特別養子縁組によって養親に預けられました。
それをきっかけに特別養子縁組の制度を知り、望まない妊娠や虐待を受けている子どもをなんとかしようと動き出し、これまでに50 組ほどの特別養子縁組のお手伝いをしました。
太田:それもやはり産婦人科医だからこそできる1 つの役割ですよね。ただ、診療報酬では決して評価されませんよね。
堂園:そうですね、悲しいことに。
太田:採算とは関わりなく、患者さんが望まれていることをやりたいと思って始められたわけですね。その気持ちは私もよくわかります。
生きがい、そして「光」を与えられる医療を
太田:私は、重症心身障害児の問題に関わってきておりますが、当時は「重症心身障害児」といわれた人たちも、年月とともに歳を重ね、今は皆おじいちゃんおばあちゃんになっています。でもその方々は、行き場がなくて困っていたんです。
社会的にはノーマライゼーションの動きなどで、脱施設化といわれることもありますが、「地域にかえそう」となり、グループホームに移ってもらったのですが、そのグループホームは障害者施設の敷地の中にあるんです。
高橋:そうなると、外食をしたりちょっと運動をしたりなどの、普通の人がするような日常生活は、どうしても難しくなってしまいますよね。
太田:そうなんです。生活感が感じられないんですよね。そこで、「近くのファミレスに連れていってみよう」「ショッピングセンターに連れ出そう」などさまざまな企画を提案して実行したんです。すると、障害者の人たちも生き生きとした表情になっていき、その変化を見た施設の人たちも考え方がだんだん変わったんですよね。
つまり、人をただ施設に収容すればいいというものではなくて、住まう視点、「生活」がとても重要だということです。散歩をしたり買い物に行ったり人と会話を楽しんだり、そうした何気ないことが人を幸せにしていると思うのです。
堂園:確かにそうですね。ナガヤタワーの住民や堂園メディカルハウスの人たちが皆生き生きしているのも、まさに「生活」があるからだと思います。
あるとき、肺がんで1 年半入院している方が堂園メディカルハウスにいて、ただ時間が過ぎるのを待つだけで退屈していました。スタッフが、「人生の最期だからなんとかしてあげたい」と、東京の馬喰町から生活雑貨やお洋服を仕入れて2 階のレストランスペースにセレクトショップを設けたんです。そこで買い物の楽しみを味わったり、おしゃれをしたり、買ったものを孫にプレゼントしたりしたところ、すごく喜んでいました。
単に病院にいるだけじゃなくて、おばあちゃんとしての役割もしっかり果たせる、その人にとって生きがいが感じられることがとても大切なんだと、改めて感じました。
太田:今はすぐに根拠を求めて「エビデンス・ベースド・メディスン」といった言い方をしますが、終末期医療は多様性と個別性に富みエビデンスなんてないですよね。私の場合、終末期医療は「世間話ベースド・メディスン」が一番だと思っています。
ヴィクトール・E・フランクルの『夜の霧』に、こんな感じの印象的な一節があるんです。
「貨車に乗せられて、アウシュヴィッツのガス室に向かうような絶望の闇のなかでも、景色などの自然の美しさと会話から生まれるユーモアに癒される」医療も同じことがいえるのではないでしょうか。どんなつらい状況のなかでも、患者さんが何かしら光を感じられる、そんな医療を私たちは提供していかないといけないと思うんですね。
源流は「世のため人のため」
髙橋:堂園先生は本当に数多くの取り組みをされていて、そのきっかけは「必要に迫られて」というお話でしたが、人はなかなかそこまで思えるものではありません。堂園先生のなかにそうした発想に突き動かすものがあるように思うのですが、そのあたりはいかがですか。
堂園:私の祖父の代から「仕事を金とりと思うからきついのだ。どんな仕事でもそれは天命だと思え」との遺訓があるんです。人としての使命感というのでしょうか。家族で食卓を囲むときの話題も「世のため人のため」。そのため私は、小さいときからすでにそうした考え方をもっていました。
実はナガヤタワーの敷地の使い方も、父から「社会に役立つものをするように」という遺言があったのです。
いろんな業者から、ホテル、結婚式場などの話があったのですが、どれもピンときませんでした。ナガヤタワーの発想を思いついたときに、「社会に役立つのはまさにこれだ」と思いました。
太田:私は、開業医の父親を見て父の跡を継ぎたくないと思っていました。むしろ大学病院で、『白い巨塔』の財前五郎みたいになってやろうぐらいに思っていたんです。でも結局、今、父と同じことをしているんですね。私もやっぱり青い正義感というか、医師として人として誠実に患者さんに向き合っていきたいという思いがありますね。
高橋:患者さんの生活を第一に考えた医療を目指していくべきだと思いますが、その辺りはどう思われますか。
太田:地域医療の拠点は診療所、おそらく外来診療なんですよね。診療所に来る患者さんの困りごとに対してソリューションを示していくと、自ずと「住まいと医療の共存」、つまり堂園メディカルハウスやナガヤタワーのような形になるのだと思います。
だから、診療所に通いたい人は通ったらいいと思うんですね。泊まりたい人は泊まったらいい。住みたい人は住んだらいい。つまり診療所がコアとなって、いろんな展開があっていいと思うんです。
医療はそもそも社会科学的なものなので、医学だけで解決しない。「医・食・住」足りて、という気がしますね。医療の「医」、「食べる」と「住む」。患者のQOL を考え、医師が「医・食・住」を具現化する。まさに堂園先生がされてこられたことですね。
堂園:ありがとうございます。コンビネーション緩和医療システムですね。外来でも入院でも在宅でも、本人の希望する場所で、どこでも医療が受けられるということ、そういう患者さんの希望というものをとても大事にしてきました。
高橋:患者さんが選択したところに医療を届けるということですね。
堂園:やはり治療だけでなく、患者さんのQOL も加味した医療を提供していくべきだと思いますね。
太田:超高齢社会は、医療の意義や役割を大きく変えつつあります。現在、医学部教育のコアカリキュラムが変わり、在宅医療の意義について医学部でも教えなくてはならないようになりました。「総合的に生活者を見る姿勢」という柱が立ったように、これからは、患者さんそれぞれの生活を主軸に置いた医療を、しっかり提供していく必要があるということだと思っています。
今回の対談を通して、医療と暮らしの関係性とその意義がよくわかりました。本当にありがとうございました。
ナガヤタワー
住 所: 鹿児島市上之園町3-1
開 設: 2013 年
活動内容: 高齢者だけでなく多世代が共に暮らし、医療・介護サービスを受けられる「住まい」としての機能をもつ。共有スペースでの交流や、必要に応じた柔軟なケア提供など、地域に根ざした包括的なアプローチを実践している。
https://www.nagaya-tower.com/( 2024 年 7月現在)
医療法人アスムス
住 所:栃木県小山市喜沢1475 番地328
開 設: 1992 年
活動内容:「 治し・支える医療」を目標に 1992 年から訪問診療、訪問看護を行っている。たとえ病気や障害があっても充実した人生が送れるよう、一人ひとりの希望に寄り添った医療とケアを実践し、日常生活を支える医療を行っている。
http://www.asmss.jp/( 2024 年 7 月現在)
制作:竹田印刷株式会社
ETD2624H06