大塚薬報 2016年6月号掲載

そうだったのか!?日本のうんちく 43
お風呂でさっぱり
 実を申せば、私がうっかり所帯を持った理由は「内湯に入れる」からだった。ご生誕以来、生涯の夢は「風呂のある家に住みたい」という、涙が出るほどささやかなものだったのだ。それまでは、雨の日も雪の日も、四畳半トイレ共同のアパートからの銭湯通い。定休日はよそへ行くか、近所の家でもらい湯をしていた。しかし、銭湯は零時辺りでおしまいになる。夜遊びが過ぎて、お湯へ行きそこなった翌朝の気持ち悪さよ。
 しかし、夢は叶えてみるとたいしたことはないもので(もとのスケールが小さいのだ)、狭い上に、掃除までさせられるとは思わなかった。五尺四寸の身体は思い切り伸ばせても、開放感がない。肩までお湯に沈めても、「うーぃ」というあの感嘆詞は出ない。仕方なく、今は、原稿が日の高いうちに書き上がると下駄履きで近所の「お湯」へゆく。「お湯」とは東京弁で、正確には「お湯ぅ」だろうか。まだ明るいうちに手を伸ばし、「うーぃ」と高い天井まで響くような声を出す時の贅沢さ。460円(2016年3月現在・東京都の料金)で気分は「お大尽」。何とも安上がりでないかい。
 徳川家康が江戸に幕府を開き、江戸の町が町人の力で活気づいて以降、「江戸っ子」なるものの意地や誇りが生まれたわけだが、江戸時代初期は開拓だの干拓だの土木工事が続いた上に、さえぎる物のない場所で空っ風が吹き荒れ、町は相当に埃っぽかったようだ。当時の江戸っ子には、風呂は「お洒落」ではなく、欠くべからざる存在だったのだ。江戸時代の「お湯屋」には、二階に上がれば休憩場もあれば碁や将棋の道具もあり、立派な巷の社交場だ。今の「スーパー銭湯」(何がスーパーなんだか)顔負けである。そこで「ざる碁」や「へぼ将棋」に飽きれば、お世話係りのお姉さんを口説いてみたり、なかなかに素敵なところではないか。
 余計な話だが、この当時は今の「細マッチョ」はモテなかったんですと。なぜなら、労働人口の多くが肉体酷使系だから、それが標準なの。モテたのは、ぽっちゃり系の色白の優男。あぁ、江戸時代に生まれてればなぁ...。
 ところで、銭湯の発達を見てゆくと面白い。湯船が一つで混浴の時代もあれば、それ以前は蒸し風呂の時代がかなり長い。そのために、今ならば「湯あみ着」と呼ぶ「浴衣」を着て中に入り、汗を吸わせたようだ。中は薄暗く、入り口は熱気が逃げないように、高さも1.2メートル程だったとか。この入り口を「柘榴口」という。「柘榴口」とはこれいかに。江戸時代は、鏡を磨くのに、柘榴の実を二つに割ったものを使ったそうだ。風呂に入るには、入り口が低いから、身を屈めなくてはならない。「かがんで入る」、「かがみ入る」。鏡にいるのは柘榴だから、「柘榴口」。はぁ、ずいぶん手数のかかることで。
 今は聞かなくなったが、お湯の中だけで通用する言葉もあった。明治生まれの老人なぞは、湯船へ入る時に、小声で「冷えもんで」と言いながら入って来たのを微かに覚えている。これは、冬季限定で、いい具合の湯加減なのに、すっかり身体の冷えた人が入る時の、熱湯好きの江戸っ子への気遣いだ。実際は、大きな湯船にお爺さんが一人凍って入って来たところで、そう温度なんか変わりゃしない。ただ、歌舞伎の『助六由縁江戸櫻』にも、そんな科白があるところを見ると、相当に古くからの言葉のようだ。
 そこまで遡らなくても、昭和44年までの東京では、女性は「髪洗い賃」を番台に自己申告して払っていた。これにも覚えがある。当時、大人の湯銭が35円だったのに対して、「髪洗い賃」は5円だから、意外に高い。昭和中期の東京の女性にとっては、毎日髪を洗うのは大変だっただろう。それを思えば、「朝シャン」の何と贅沢なことよ。「髪洗い賃」を取る理由はたくさんお湯を使うからだが、どの長さから払うんだか、長髪の男はいいのか、などの疑問は、50年も経たないのに、今となっては歴史の闇の中だ。誰も研究はしてくれないだろうが、後世の成果を待とう。
 昭和27年、全国を席巻したラジオドラマがあった。後に佐田啓二・岸恵子で映画化され爆発的にヒットした『君の名は』だ。 毎週木曜日の夜に放送され、この時間帯は「女湯が空っぽになる」という都市伝説まで生まれた。これに似たような事実はあって、私が少年の頃のお湯屋は、野球中継が終わると男湯が混み、ドラマが始まると女湯が空いた。「チャンネル権」という憧れの権利をお父さんが持っていた時代に、親父が野球に夢中になって茶の間を占領している間にお母さんはお湯へ行き、帰って来る頃に交替、と相成る。ここで奥様方は亭主の棚下ろしをするわけだ。何のことはない、お湯屋は昭和の後半までは、江戸以来の庶民の社交場だったんじゃないの。あぁ、もったいない。たまには皆さんで桶を抱えて手ぬぐい片手にお湯に出かけて、「うーぃ」と大きな声を出してみては?

 

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