大塚薬報 2016年4月号掲載

そうだったのか!?日本のうんちく 41
言葉って怖い!
 そんなことはよもあるまい、と願うが、読者の誰かが「平岡の連載は下らないことばかりで資源のムダだ! あんなものは早く打ち切りにして、ついでに平岡も打ち首にすればいいのに」と不届きなことを言ったとしましょう。うーむ。いきなり不本意な出だしではあるが...。
 それから二週間後のこと、平岡裕太郎は、自宅の大広間へ降りる三十段の階段を踏み外し、首を折って死にましたとさ。駆け寄った執事の話では、すでに息がなく、「めぇ」とも言わなかったそうな。
 読者の私に対する想いと、事故死には何の因果関係もない。万が一、私に殺意を抱く読者がいれば別だが、こんなに愛らしいおじちゃんに殺意を抱く人はいない。しかし、私の死を願った読者は何となく寝覚めが悪いだろう。「あんなことを言ったせいかなぁ。本当は褒めたかったのに、つい本音が出てしまった」と思いながら。
 こうしたことは日常生活の中で意外に多い。「そんな縁起の悪いことを...」とか「あんなこと、言うんじゃなかった」というやつだ。しかし、古来日本人は、言葉そのものに力が宿っていると信じてきた。これを「言霊」という。決して「お手玉」の親戚ではない。「縁起を担ぐ」とか「験を担ぐ」ことに精神を安定させる要素はあるかもしれないが、科学的な効果の検証は難しいだろう。しかし、この感覚は、21世紀の今も、我々の無意識の中に深く深く沁み込んでいる。
 お芝居の最後の日を「千秋楽」と言う。しかし、古典芸能などでは「千穐楽」と書く。「秋」の文字に「火」が含まれており、劇場が火事になるのを恐れ、長寿の象徴でもある「亀」が入った「穐」という字に書き換えるのだ。これも、言霊に囚われているケースで、文字を変えただけで火事が出ないのなら、消防署はいらない。大体が「穐」は訓読みでは「あき」でも、音読みで「しゅう」とは読まないのに、強引なんだから、もう。
 私がご幼少の砌、祖母に「櫛を拾ってはいけない」と言われた。女の子ではないので、櫛を集める趣味はなかったし、家業が床屋でもなかったので、私には理解できなかった。決して馬鹿だったからではない。祖母の言うことにゃ、「櫛は苦と死、だから、他人の苦や死を拾うようなものだ」とのこと。単純に人の頭をいじるものだから、衛生的ではないのだと思っていたが、本当の意味が分かったのは、それから五十年後のことだ。最近は櫛どころか10円玉さえも落ちてはいないが、「音」による語呂合わせから不吉なイメージを排除しようとするのも、言霊の力だ。
 こういうことは学校では教えないものだ。歌舞伎を始めたのは誰でしょうとか、鎌倉幕府がいつできた、などと物事の本質を避けたところばかり教えて、勉強嫌いを世に送り出している。物の見方を変えて、「日本人とは何か」「日本人の考え方」など大きなテーマのもとに教育をすれば、その中に国語も算数も理科も社会も、すべての学問分野が入るのに。ここで、「○×省ってばかなのね」と言うのは、言霊ではなく単なる悪口になってしまう。あぁ、日本語って難しいなぁ。
 考えてみれば、言葉は恐ろしいものだ。「ペンは剣より強し」との諺があるが、それはむしろ西洋の論理的な思考に基づくものだろう。こうした土着的な、何とも判別のしようがない感覚こそ「日本的な思考」なのだ。とは言え、歴史的にはこうした考えが中国大陸や朝鮮半島の影響を受けていないわけはない。ただ、それが色濃く残っているのが日本ではないのだろうか、と思うのだ。  子供の頃、喧嘩のついでに「お前なんか死んじゃえ」と言ったことのある方も多いだろう。幸いにして、多くは存命のはずで、喧嘩のことも忘れているだろう。 しかし、今の世の中、言葉遣いに気を付けないと、歴史的な考えの変化で「人権」や現代の「倫理観」にも大きく関わる話だ。何もかもが面倒な時代になったものだ。うっかり、人の悪口も言えたものではない。「人を呪わば穴二つ」とも言うし、これからは悪口を言うのはやめようっと。その代わりに、誰もいなくなった頃を見計らって、一人で陰口を...。

 

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