大塚薬報 2021年12月号掲載

セーヌ川の支流に沿って、画家たちと収集家たちに愛された田舎の風景があった

描きたい風景画の原点

 趣味で水彩画などを描き始めた人が、よく樹木と家のある風景を描いているのを見かけたりするものである。今回1点ずつ取り上げたセザンヌとピサロの風景画は、そういう誰もが描いてみたい風景への郷愁を、強くかきたてるところがある。何か、とても懐かしい絵なのだ。

 その2点、セザンヌの「首吊りの家」(1873年)とピサロの「赤い屋根」(1877年)は、一見ありふれた絵に見える。だが、考えてみると、ヨーロッパの美術史のなかで、彼ら以前にこういう絵はなかったし、印象派以降の画家たちが描いた風景画も、ピサロやセザンヌの絵とは違うものであった。

 たとえば2人に近い時代の画家を思い浮かべても、クールベの風景では、人間に対する自然の厳しさのようなものがことさら強調されているし、バルビゾン派の風景などは、そのなかで生きる農民などとの一体感という視点から捉えられた自然なのである。マネ、ドガ、ルノワールらは風景画よりも人物画の画家であったし、風景をよく描いたモネにしても、ありのままの風景を描くというより、後年の庭園趣味をみてもわかるように、彼もまた、おしゃれなパリ人らしく、風景画のなかにもピクチャレスクなものを求めていた画家であった。

 こういう比較をしてみると、ピサロやセザンヌのある時期の風景画は、平凡に見えて、案外に独自の世界であったことがわかる。では、その独自性とはどういうものなのであろうか。結論をいってしまえば、おそらく、ピサロやセザンヌは、目の前に、ある種の感情を呼び起こす風景があったとすれば、呼び起こされた感情の方ではなく、感情を呼び起こす元の風景を捕まえようとしているのである。

 感情を呼び起こす風景を前にすると、ついその感情の方を表現しなければならないと思い込んでしまう画家が多いのではないか。もちろん、それも絵画のひとつの行き方には違いないが、ピサロやセザンヌ、とりわけセザンヌは、感情を呼び起こす元のものを追求し続けたように思われる。

 絵そのものに感情がないことによって、見る者は絵の前で初めて自身の感情が呼び起こされるのを感じる。それは誰かが感じた感情を押しつけられるのではなく、対象に対して初めて、自分のなかから湧いてきたものなのだ。セザンヌやピサロの風景画に、懐かしさを感じるとすれば、風景を画家の感情によって変化させずに、あるがままに伝えてくれているからであろう。

ピサロとセザンヌ

 セザンヌは1870年代の初めころ、先輩画家のピサロに誘われ、パリからピサロの住むポントワーズに移り住んだ。ポントワーズはパリから30キロ余り北西、セーヌ川の支流の一つオワーズ川のほとりにあり、旧市街には中世の城壁が残る一方、新市街の近代建築も、付近の自然と民家なども見ごたえのある、美しい町である。

 早くからセザンヌの才能を見抜いていたピサロは、セザンヌを自分のそばに置き、画友としてつき合いたかったようである。実際、それから10年余りは、この2人の画家の間には、師弟とも友人ともみられる、親密な交遊関係が生まれた。2人はポントワーズでは一緒にスケッチに出かけ、しばしば同じ場所を描いたりしている。

 1873年、それまでポントワーズでホテル暮らしをしていたセザンヌは、長期滞在のために、ポントワーズから、オワーズ川をさらに10キロほど遡ったところにある村、オーヴェール・シュル・オワーズに移った。

 この地名を聞いてピンとくる人も少なくないはずである。そう、ゴッホ終焉の地だ。しかも、ポントワーズにいたセザンヌをここへ移らないかと誘ったのが、ゴッホを看取ったことで知られる、あのガシェ医師であった。ガシェはパリで開業していたが、オーヴェールにも家を持っていたのである。彼は自らスケッチし、エッチングも制作した人で、早くから絵画愛好家として有名であった。

 オーヴェール周辺には、かつてはコローが住んでいたこともあって、当時、失明しつつあった晩年のオノレ・ドーミエ、「オワーズ川の日没」を残したドービニーなどが住んでいた。ガシェはこれらの画家はもちろん、ポントワーズのピサロとも親しい間柄であった。

 ピサロの方でも、セザンヌがオーヴェールに移っても、ポントワーズを去ったとは思わず、頻繁に往来していたようである。

 こうした日々、セザンヌはピサロから、何を学んでいたのだろうか。伝記作家アンリ・ペリュショは、こう書いている。

 「ピサロは、セザンヌに、風景の前に身をおいて、彼が見るものを、ただ極く素直に、極く平凡に述べるよう、網膜に受ける印象をどんな風にであれ理解しようなどとはせずに、ただ素直に翻訳するようにと忠告した、すなわち、『自己』から逃れ、ただ、外的実在の、注意深く、細心綿密な観察者でのみあるようにと、勧めるのである。セザンヌは、ピサロの言うことに耳を傾け、この方法の卓越さを認め、それに従った。」(アンリ・ペリュショ、矢内原伊作訳『セザンヌ』)

それぞれの道へ

 セザンヌの「首吊りの家」は、ポントワーズからオーヴェールに移ってすぐに描かれた。第1回印象派展(1874年)に出品され、収集家ドリア伯爵の目にとまり、300フランで購入されている。後にセザンヌの作品を数多く収集したコレクターのヴィクトール・ショケが、この絵に魅せられ、ドリア伯に懇望して、所蔵する別のセザンヌと交換に入手したことは、よく知られた逸話だ。「首吊りの家」とは穏やかでないタイトルだが、その意味を説明しているものに出合ったことがない。そういういい伝えのある家なのだろうか。

 便宜上、これまでセザンヌとピサロを一緒にしてきたが、もちろん2人の画家はまったく違う個性の持ち主である。似ているところがあるとすれば、同じ風景を描いているからで、ピサロは後年、長男のリュシアンへの手紙で、こんな風に語った。

 「ゾラやベリアールが(略)、ヴォラールのところで開かれているセザンヌ展で、オーヴェルやポントワーズの風景画が私の絵と似ていることが奇妙だというのだ。当然だよ。われわれはいつも一緒にいたんだから!

 しかし、人はたしかに、それぞれただひとつの大切なものをもっている。それは『自分自身の感覚』だ。」(クレール・デュラン=リュエル・スノレール、藤田治彦監修、遠藤ゆかり訳『ピサロ』)

 ピサロとセザンヌの違いでわかりやすい点を挙げるなら、ピサロは人間を風景の一部と捉えて、風景画のなかによく人物を描き込んだが、セザンヌは風景画には人物を一切登場させない。ピサロの絵では風景と人物は融合しているが、セザンヌは人物を描くときには、人物に集中し、背景はあくまで背景として扱っている。ピサロの絵の親しみやすさ、セザンヌの画面の力強さは、そういうところから生まれているようだ。

 ピサロの「赤い屋根」を見ると、赤い屋根の家は落葉した冬木立に取り巻かれている。これは実景かもしれないが、敢えてこういう景色を選んで描いたところに、ピサロという画家の一種の工夫が見て取れよう。セザンヌならば、こういう風景を避けたのではないか。

 1883年に、ピサロとセザンヌは絶交し、以後関係を修復しようとはしなかった。今回はそこまでふれる余裕はないが、ピサロとセザンヌの交流は、1883年までで充分であったという気がする。いずれにしても、セザンヌを刺激したピサロの功績は大きかった。

◎このコーナーの作品は、大塚国際美術館の作品を撮影したものです。〈無断転載使用禁止〉

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