大塚薬報 2022年1・2月合併号掲載

セーヌ川の支流に沿って、画家たちと収集家たちに愛された田舎の風景があった

ルネサンスの人物記念堂

 肖像画には、本人をモデルにするか、画家が本人を見たことがあって描く場合と、モデルがはるか昔の時代の人で、生前の肖像画なども伝わっていないような人物を描く場合がある。後者は、肖像画とはいっても、画家によるモデルの研究、ないしは想像の産物だ。

 今回、これから鑑賞しようとするアンドレーア・デル・カスターニョ(1419/21~1457年)による2点の肖像画、「クマエの巫女」(1449?1451年頃)と「ダンテ・アリギエーリ」(前同)は、いずれも、おそらく画家の想像による人物像である。クマエの巫女は、紀元前8世紀ころにいたともいわれる、伝説上の霊能者、あるいは予言者であった。ダンテは誰もが知る実在の詩人だが、1265~1321年という生没年からすると、写実的な肖像画が伝わっていたとは考えにくい。むしろ、クマエの巫女についてもダンテについても、おそらくカスターニョこそが、最初に写実的な像を示した画家であったといってもいいのではないかと思うのである。特にカスターニョの描いたダンテは、後世、ダンテの肖像といえば、生きたダンテを写したものでもあるかのごとく、専らこれが用いられるようになったのであった。

 掲載した作品の話を進める前に、これらの肖像画が描かれた、やや特異な事情にふれておくことにしよう。

 この2点の肖像画は、カスターニョが描いた9人の著名な人物の肖像のうちの2点である。他の7人は、フィリッポ・スコラーリという傭兵隊長をはじめとする武人3人、王妃エステル、女王トミュリスと女性が2人、文学者はボッカッチョとペトラルカの2人を加え、イタリア文学の祖を網羅した顔ぶれであった。

 9人の肖像画は、フィレンツェ郊外のソッフィアーノにあるヴィッラ・カルドゥッチのために描かれ、かつてはこの別邸の一室の壁面にズラリと並んでいたのであった。現在は壁からはがされ、フィレンツェのウフィツィ美術館に移されて、展示されている。

 別邸の主が、なぜこうした人物たちの肖像画を描かせたのかは、詳しく伝わっていないようだが、偉人たちを祀るパンテオンのようなものを考えていたのではないだろうか。この肖像画を見ると、一人一人が戸口のような枠のなかに立っており、枠から手を伸ばして出したり、足を踏み出したりして、人物の立体感をことさら強調している。あたかも、本来は立体の彫像を置くべきところを、絵で間に合わせた、とでもいっているかのようだ。想像にすぎないが、こういうスタイルは、発注者の希望にカスターニョが工夫を加え、偉人たちの記念堂のようなものを目指していたような気がする。

美人系のクマエ像

 「クマエの巫女」のクマエは、ナポリの西約25キロのところにある町の名前(現在はクーマ)で、イタリア半島本土に最初に建設されたギリシアの植民都市だったところである。巫女と訳されているのは、ギリシア語でシビュラといい、古代のギリシア・ローマにいた、恍惚状態で神託を伝えた女性たちのことであった。彼女らはペルシア、リビア、サモスなど地中海各地の10カ所ほどにいたとされるが、なかでもクマエの巫女が最も有名である。

 ローマ神話のなかで、クマエの巫女は古代ギリシアの英雄アエネアスに有益な助言を与えたり、また別の機会にはキリストの降誕を予言したといわれている。だが、彼女の風貌については、何も伝わっていない。それをカスターニョは、若く美しい、知的な女性として描きあげた。右手の人差し指を立てたポーズで立つ巫女は、裾に緑と金のアクセントの入った赤い衣装を着ており、そのアクセントの緑と合わせたかのごとく、左手に緑色の表紙の書物を抱えている。ひだまでが正確に描写された赤い衣装に合わせて、赤い靴を履いた長身の巫女は、何とも魅力的だ。

 その後、クマエの巫女をはじめ、10人の巫女たちの描かれる機会は多くなっていくのだが、カスターニョの若々しい「クマエの巫女」は、お手本になったように思える。いずれも1600年代に入ってから描かれた、ドメニキーノ(クマエ)、グェルチーノ(ペルシア)、コルトーナ(サモス)などの巫女は、若い美人である。

 ただ、1人だけ、カスターニョの「クマエの巫女」に倣わない画家がいた。システィーナ礼拝堂の壁画に巫女たちを描いた、ミケランジェロである。カスターニョの絵に50年余り遅れて描かれたシスティーナ礼拝堂の天井画では、リビアやデルポイの巫女は若々しい女性として描かれているのに、クマエの巫女に限っては、男性と見まがうばかりの屈強な年配の女性である。ミケランジェロはカスターニョの驥尾に付くことを嫌ったのであろうか。

普通の人の目

 カスターニョの人物画を見て思うことは、まず何よりも立体感のある写実である。彼と同時代のイタリアの画家で、これだけの写実の技量をもつ画家といえば、ボッティチェッリとマンテーニャくらいしか思い浮かばない。

 写実に加えて、私は今回、カスターニョの描く人物のある特徴に気づいた。それは人物の目が、いずれもごく普通の人の目、その意味では人間らしい目をしているということである。傭兵隊長という猛者でありながら、フィリッポ・スコラーリの目には、なぜか弱々しさが感じられた。「ダンテ・アリギエーリ」に描かれたダンテの目も、一見鋭いように見えるが、優しく、人を思いやる目だ。あるいは人間の苦悩というものを知っている目とでもいおうか。

 考えてみれば、これまで、目というところに焦点を当てて人物画を見たことがなかった。そこで改めて他の画家の絵を見直してみると、多くの絵のなかの人物は、目の表情をさりげなく消してしまっているのである。画面のなかで何かをしている人々の目は、その何かに気を取られていて表情を見せないし、画家の方をまともに見ている肖像画のモデルにしても、自分の内部を覗かれないように、内側でもう1枚の扉を閉めているのだ。カスターニョは、その描かれる人々の目のベールをはぎ取ってしまう画家である。

 イタリア最大の詩人と誰もが認めるダンテだが、その前半生を知る資料は乏しく、故郷フィレンツェから永久に追放されることになった政治的行動が、断片的にわかっているにすぎない。代表作『神曲』をはじめとする彼の作品の多くは、北イタリアの各都市を放浪し、ラヴェンナで客死するまでの最後の十数年間に書かれたものであった。カスターニョによる肖像画の目は、そうした境遇にあったダンテの心を掬い取ったもののごとくである。

 さて、そのカスターニョだが、あまり詳しい伝記は伝わっていない。カスターニョはフィレンツェ近郊の村の名前で、彼の名前はそこで生まれたところからきている。フィレンツェでメディチ家の庇護を受けるようになったカスターニョは、アンギアーリの戦いで絞首刑に処された市民たちの肖像を、ポデスタ宮の壁画に描き、その見事な出来栄えから、「首くくりのアンドレーア」というあだ名をつけられている。写実に打ち込んだ、カスターニョらしいエピソードといえるだろう。

 一時ヴェネツィアの教会で仕事をしたあと、フィレンツェに戻ったカスターニョは、1447年、代表作の一つとなった「最後の晩餐」の壁画を、サンタポローニア修道院の食堂に描いた。以来、フィレンツェに腰を落ち着けたカスターニョは、数々の力作を手がけたが、1457年にペストにかかって世を去っている。

◎このコーナーの作品は、大塚国際美術館の作品を撮影したものです。〈無断転載使用禁止〉

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