大塚薬報 2014年12月号掲載

歴史上の人物たちの足跡をたどる 第40回<前編>真田昌幸

 真田昌幸の肖像画を見ると、謀(はかりごと)に長けた油断のならない人物であることはすぐにわかる。
 こけた頬、張り出した頬骨といった容貌は、どことなく唐獅子に似ている。日に焼けた額は癇の強さを思わせ、落ちくぼんだ眼窩(がんか)には、こちらの心の中をいとも簡単に読み取ってしまう鋭さがあり、まさに抜け目のなさが凝縮されたような面構えといえるのではないだろうか。
 秀吉は昌幸を「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と揶揄した。謀略を駆使する策士というわけだ。また家康は、腹立ちまぎれに「稀代の横着者」と吐き捨てた。
 甲斐の武田家が滅亡したことで、信濃の小大名であった真田家は後ろ盾のないまま、戦国時代の激流の中にほうり出されてしまう。真田家の生き残りを懸けて、昌幸は綱渡りのような策謀をめぐらす。つまり4年のほどの間に、織田、北条、徳川、上杉、豊臣と何度も主君を変えたのだ。
 昌幸に対する世評が芳しいわけはない。そこで「表裏比興の者」「稀代の横着者」と罵倒されたわけだが、それを耳にした昌幸はきっと、「冗談を申すな! そういうお前たちはどうなのだ」と冷笑したに違いない。
 秀吉に対抗するため、小田原の北条氏と和議を結んだ家康は、真田家が所有する沼田城(群馬県)とその周辺の諸城を北条氏に明け渡せと、理不尽にも一方的に命じてきた。昌幸にしてみれば、「沼田はわが領地であり、家康の勝手にしてよい土地ではない」となる。そこで、越後の上杉景勝と通じた上で、徳川軍への要撃の支度にとりかかった。
 この戦いは、意外にも家康の軍の惨敗に終わる。柵で城下を迷路状にするなど、昌幸のさまざまな智略によって家康の軍は多大な死傷者を出した。それを知った秀吉は、家康を攻めるとしたためた手紙を昌幸に送っている。しかし、その後、家康と和解すると、一転して家康に昌幸を討たせようとした。秀吉は家康を牽制するために昌幸を利用したに過ぎなかったのだ。
 これでは、秀吉も家康も「表裏比興の者」ではないか。戦国時代はまさに表裏の時代だった。表と裏をうまく使い分ける者でなければ、家とわが身を守れない。昌幸が表裏比興と言われたのは、戦国時代的な性格を最も鮮明に持っていた武将ということなのだろうと、私は思っている。

わしを信頼してくれたのは信玄公だけだ

 秀吉と家康からは警戒された昌幸だが、武田信玄はその才能を評価し、参謀に取り立てた。
 信玄が北条氏と対峙していたときのこと。重臣の慎重論に信玄は、「わが両眼のごとき者(昌幸)を物見に出しているから安心するように」と答えたという。
 昌幸が信玄に仕えたのは天文22年(1553)、7歳の時に人質として甲府へ送られ、奥近習衆に取り立てられてからだ。その時の奥近習衆からは、後に侍大将として活躍する人材が多く出た。人質とはいえ、将来を嘱望された青年武将・昌幸の姿が目に浮かぶ。
 初陣を飾ったのは15歳の時で、信玄と上杉謙信が5度にわたって戦いを繰り広げ、その中でも双方に多大な戦死者を出し、信玄と謙信が一騎打ちをしたとされる戦国期最大の激戦・第四次川中島合戦という。
 信玄の啄木鳥戦法を見破った謙信によって、武田軍は窮地に立たされた。信玄の本陣まで切り崩されたというが、その本陣を守る旗本軍も浮足立った。しかし、昌幸は持ち場を離れることなく、奮戦したと伝えられる。言い換えれば、昌幸ほど味方につければ心強い武将もなく、敵にまわせば厄介な者もいないといえるだろう。
 昌幸は、智謀の武将として名を轟かせた真田幸隆の三男である。本来なら真田家を継ぐことはなかったが、長篠の戦いで昌幸の人生は一変した。信玄の跡を継いだ勝頼と信長・家康の連合軍が戦い、突撃した兄・信綱と昌輝が討ち死にしたのだ。それで、三男の昌幸が真田家の家督を相続することになったのだが、昌幸の智謀が本格的に発揮されたのは家督を継いだ29歳の時からである。


真田昌幸に関する画像

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