大塚薬報 2014年11月号掲載

歴史上の人物たちの足跡をたどる 第39回<前編>北条氏康

 上杉謙信や武田信玄、織田信長ほど知られてはいないが、北条氏康は優れた武将の一人である。北条早雲を祖とし、小田原を中心に関東を支配した北条氏の三代当主であった氏康は、文武に秀で、民政に見事な手腕を発揮し、家臣はもとより領民からも厚く敬われた。
 その氏康が、はらはらと涙を流したことがある。息子の氏政と食事を共にしていたときだった。氏康はこう呟いて嘆いたのだ。
「北条もわしの代で終りか」
 言葉の真意を計り兼ねて氏政と家臣たちは困惑した。原因は氏政の食べ方にある。氏政はお椀に盛った飯に汁をかけたが、一度では足りず二度かけた。その所作が、国主にあるまじきことというのだ。氏康は息子を諭す。
「飯は毎日摂るもので慣れていない者などいない。しかし、お前(氏政)は一杯の飯にかける汁の量の加減さえわからず二度もかけた。そのようなことでは国主として人の心を見抜くことなどできないだろう。目利きができなければ有能な人材は集まらない。わしが死ねば、すぐにでも隣国が攻めてきてお前は滅ぼされるに違いない」
 たかが汁かけ飯で大袈裟なと思えなくもないが、生き馬の目を抜く戦国の世である。わずかな気配りや手配りを怠り、見通しが少し甘かっただけで滅んでいった武将は数限りなくいた。約百年間に渡り関東を支配した北条氏五代の逸話を集めた『北条五代記』には、人心を見抜くこと、前もって備えておくことを、氏康がいかに大切にし苦心したかがつづられている。
 たとえば、隣国との境を守る支城に対して氏康は、争いごとの種のない平穏な時に、多くの兵と兵糧を蓄えさせていた。だからこそ、支城の城主は不安を抱かずに警戒にあたり、敵が攻めてきても慌てることなく対処できたのだった。
 氏康はこうも語っている。
「日頃から家臣を愛さず、民を慈しまなければ、彼らは新たな国主を求めて他国へ去ってしまうだろう」
 北条氏のまわりには駿河の今川義元、甲斐の武田信玄、関東へも遠征した越後の上杉謙信など、強敵がいた。だからこそ、情勢を正しく見極める目と、家臣や民の心を見抜いて掌握する力が北条氏の生命線だった。それを氏康は息子に伝えたかったのだ。

多数意見を重視する評定が肝心だ

 氏康の祖父は下剋上の代名詞ともいわれる北条早雲である。一介の浪人から身を起こし、戦国大名にまで成り上がった武将だが、評判は極めてよろしくない。しかし、実際の早雲は善政を行った。五、六割の年貢を取られるのが普通の時代に、四割を打ち出し、領民の負担を軽減させた。伝染病が発生すれば薬を取り寄せて配っている。
 目先の小さな利益にとらわれない長期の見通しに立った早雲の善政は、北条氏の実質的な基盤を築いた二代当主の氏綱に受け継がれ、そして勢力を拡大させた氏康で結実したといえる。
 氏康は京の都から優れた兵学者を招き、新しい戦法を積極的に学んだ。その上で、いい用兵術の案があれば、たとえ身分が低くとも、直接自分へ上申せよと家臣たちに説いている。
 さらに、氏康は評定を重視した。軍事だけでなく行政や訴訟についても評定を開き、家来の意見に耳を傾け、基本的に多数意見を重視して物事を決めていった。早雲以来の民主的な考え方は、氏康の代にさらに進められたといっていい。そのため、経済は発展し、城下町は栄えていったのである。しかし、いつになっても決まらない会議のことを「小田原評定」と呼ぶ。ただ、それは豊臣秀吉に攻められた時の対処法が決まらなかったことを揶揄しての言葉で、氏康の代には有り得なかったことだ。
 一方、徐々に領土を拡大していった氏康は、平和的な領土併合を進めた。そこで行ったのが、有力な支城の城主に自らの息子を養子として送り込む方法。これにより、強い結束力が生み出させていく。また検地を行い、北条氏所領役帳を作成した。これは家臣に軍役を課すための基本台帳となった。
 氏康が、さらなる税制改革に乗り出したのは36歳の時のことである。前述したように、北条氏は年貢を四割しか取らなかったが、その他にも領民に課せられる税はあった。そこで氏康は、寺社造営などに対する段銭(たんせん)、頼母子(たのもし)や無尽(むじん)などに参加する際に課した懸銭(かけせん)などの3つの税以外を廃止したのである。これにより、領民の負担はさらに減った。目安箱も設置した。役人や代官が不正を働いたら、領民は直接北条氏に訴えることができる。早雲以来のこの訴訟制度を氏康はさらに加速させていった。
 北条氏は急速に領土を広げたため、新たに家臣となった者の中には密かな敵意を抱いたり、不満を持つ者もいたろう。しかし、早雲・氏綱、そして何といっても氏康の組織作りと民政が、北条氏に付いていけば安心という信頼感に変わっていったことは容易にうなずける。


北条氏康に関する画像

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